バトル・オブ・ブリテン(1940年〜41年)は、第二次世界大戦において、ナチス・ドイツとイギリスで行なわれたイギリス上空での航空戦です。イギリスのバトル・オブ・ブリテンの勝利が、第二次世界大戦の帰趨を決定したと言われています。その勝利の背景には、当時のイギリス首相、ウィンストン・チャーチルの戦略とリーダーシップがあったと評価されます。今回はこのバトル・オブ・ブリテンから得られる意思決定と戦略の教訓を考えたいと思います。

バトル・オブ・ブリテン開始前は、ナチス・ドイツは勢力の絶頂期でした。1939年9月の第二次世界大戦開戦後、ナチス・ドイツは、1940年6月にはオランダ、ベルギー、フランスを降伏に追い込み、ヨーロッパの大半を手中に収めました。その後、その支配を完璧にするために、イギリス侵攻を計画します。ヨーロッパからイギリスに侵攻するためには、ドーバー海峡を陸軍が渡る必要があります。その準備のために、ナチス・ドイツはイギリスの制空権を確保したいと考えて、イギリスとの航空戦バトル・オブ・ブリテンに臨みました。

一方、イギリスはヨーロッパに軍隊を派遣しましたが、ナチス・ドイツに惨敗していました。1940年5月にチャーチル政権が誕生し、1940年7月にバトル・オブ・ブリテンが開始しますが、その時点ではイギリスは危機的状況だったのです。

しかしながら、1940年9月には、イギリスはバトル・オブ・ブリテンに勝利します。この逆転の勝利の背後には、イギリス側に3つの要因があったと考えます。

第一に、チャーチルの戦略意図は一貫していた点が挙げられます。上記のように、ナチス・ドイツの意図は制空権の確保ですから、防御側のイギリスの戦略目的は「制空権の維持」です。そのため、イギリスは、ドイツのフランス侵攻の段階から制空権の維持=防空戦を想定し、防空システムを構築しました。また、戦力節約の観点から、制空権の維持につながる基地の防衛を重視し、都市攻撃に対する防衛を積極的にしませんでした。危機的な状況に陥ったとしても、目的に対して一貫した対応が出来た結果、勝利につながります。

反対に、ナチス・ドイツの戦略目的は、戦争中一貫していません。最初は制空権の確保を目的に基地を積極的に攻撃していましたが、8月後半からロンドン攻撃に切り替えました。その後、制空権確保に繋がる基地攻撃は行なわず、都市攻撃を行ないます。結果的に、これは危機的状況にあったイギリスの基地防衛能力の回復をもたらし、ドイツのバトル・オブ・ブリテンの敗北につながります。

第二に、イギリスがドイツの強みを弱みに変えた点が挙げられます。イギリスは、「制空権の維持」という戦略目的のために、情報の一元的管理と航空機の統合的運用を行う防空システムを作り上げました。これは「核兵器以前の時代で最も成功を収めた軍事的イノベーション」と評価されています。航空戦は一般的に攻撃側が有利です。しかしながら、イギリスはこの防空システムにより、本土上空という有利な空間でナチス・ドイツの攻撃に対して即座に対応出来た結果、攻撃側の優位点を減殺しました。

これは、ドイツが、中部ヨーロッパにおける電撃戦に最適化されていたが故に、海を渡る航空戦には適していなかった点と好対照です。電撃戦とは、戦車を用いて敵の命令中枢を麻痺させる軍事戦略です。その中で空軍は、戦車の進撃を先導する役割と敵の命令中枢を打撃する役割でした。ナチス・ドイツに統合的に航空機を運用するという仕組みは無く、主力の航空機も航続距離が十分では無かったのです。結果、バトル・オブ・ブリテンの局面では、ドイツの強みが弱みへと変化しました。

第三に、チャーチルの卓越したリーダーシップです。上記のような両国のバトル・オブ・ブリテンの戦争目的を適格に見抜いていたのは、チャーチルです。また、自らの姿を積極的に見せることにより国民の士気を鼓舞しました。厳しい現実を率直に語り、その現実を克服して勝利に到るビジョンを語ったのです。さらに、実際に空軍を指揮したのはダウディング空軍戦闘機軍団司令官ですが、チャーチルはダウディングを全面的に信頼していました。防空システム構築や戦術レベルでは彼に一任していました。必要な局面では戦略に関するアドバイスを受け入れています。反面、部下が指示に従って行 動しているかを厳密に確認していました。 
 
以上のチャーチルに導かれたイギリスの勝利の三要因は、企業経営においても重要だと考えます。ホンダの創業期の経営者、藤澤武夫氏は、チャーチルの第二次世界大戦回顧録から企業経営を研究したと書いています。歴史から我々が学ぶべきことは多そうです。

※参考文献:「戦略の本質」(野中郁次郎他)